お寺に行こう

カンボジアはプチュンバンでした。プチュンバンは日本の盂蘭盆会、カンボジアでも仏教なので(日本と種類は違うらしいがぶっちゃけ私は宗教に疎いのでよくわからない)ご先祖様がかえってきます。カンボジアではご先祖様ものんびりなので、プチュンバンの15日ほどまえの満月祭りの日から15日間滞在します。その間にみんなお寺に行く。

お寺には毎日行っても良い。たくさん行った方が良い。実際この期間は、毎日のようにお寺に行く格好をしたおばあちゃんが、お供え物をもってバイクの荷台にゆられているのを見た。さすがに現役で働いている連中はそういうわけにいかないので、でも日を決めてお寺に行くらしい。たとえば、大学の同級生が、決まった日曜日に待ち合わせて、みんなでお寺に行くのだ。遊びに行くんじゃないんだよ、みんなしてお寺に行くの。

というわけで、それに便乗。今回行ったのは、プノンペンからすこし離れた街、タックマウのお寺。バイクやクルマや乗り合い大型トゥクトゥク(注1)で、みんなお寺に向かう。道すがら、小さな商店でみんなお供え物や水を、道ばたの花売りから花を、それぞれ買ってお寺に向かう。ご飯を持って行ける人はご飯を持っていくし、それがない人はお供え物を、それでなければお金を、と言う具合にフレキシブル。

タックマウの大通りからそれ、お寺がありますよマークになっている入り口のゲートを抜けて、ダートをバイクで進む。またこの日が、小雨で赤土が泥濘になり、なかなかの悪路。そんななかを抜けしばらく行くと、人混みがわさわさ見えてきた。人混みが見えてきたのは良いけど、すごい人だけど、お寺は・・・?どう見ても廃墟の小学校跡地みたいになってるけど?と思い、お寺は?と聞くと、その、コンクリートの廃墟(注2)がお寺なんだという。・・・そうか、これがお寺なのか、そうカンボジア人が言うならこれはお寺なのだ。人混みにならび、靴を脱ぎ、本堂(?)にあがると、確かに仏像に花にお供え物にお線香の煙とたくさんのお坊様、それからぎゅうぎゅうの人。すごい数の人。

友人たちに促されるまま線香をもち、煙にむせかえり、見よう見まねのお祈りをし(というか煩悩炸裂)一緒にならびお坊様が何か唱えるのを聞き、その間目をつむっているのでお祈りが聞き取れるはずもない私はいつ終わったかわからずに、もう終わったよ!と揺り起こされる。次はこちら、と、お米を鉢に入れる列に並び、ご飯はないのでお金を順番に入れる。その後こっち、と砂で山を作る列に並ぶ。ひととおりやって、それぞれなんなの?と聞くと「えーと、いいことがあるよ!」という一言で片付けられた。私は相変わらず疎いままだ。まあいいや、良いことがあるらしい。

さて、終わったところで当初の疑問「なんで?プノンペンには、タックマウにも、たくさんお寺があるのに、どうしてこの廃墟なの?」と聞くと、このお寺は貧乏だから、と言う答えが返ってきた。このお寺は貧乏でしょ、見たらわかるでしょ、貧乏なの。だからみんなお祭りでお祈りに来るときには貧乏なお寺に来てお金を払わないといけないでしょ、と。そうか、そうなんだ。だからのっぱらの真ん中にあるような、周りに何も無いコンクリートの廃墟に、こんなにすごい数の人が集まっているのか。そうだよね。そりゃそうだよね。

時々、すごく当たり前のことをおしえられるんだよなあ。つまり、すごく当たり前のことに、私は気づかないんだよなあ。プチュンバンのときのお寺は、何日もいくつもいけなくても、最初と最後に行くのもとても大事らしい。というわけで、最終日にも行きました。こちらでは煩悩でなくちゃんとお祈りしたよ!

注1 大型トゥクトゥク、名前をなんと言って良いのか、バイクがリヤカーの荷台を引っ張っているようなもので、人が20人くらい乗れるように木のシートが作ってあるもの。プノンペンから近郊に向けて走っていたりします。詳細はまた別の記事を書こう。
注2 廃墟とは言葉が悪いかもしれませんが、いや、本当にそんな感じなのです。四角いコンクリートの箱の状態で、街中のお寺にあるような本殿もストゥーパも何もない。そもそも周りになにもない。なんか映画の冒頭シーンで出てきそうなくさっぱら。
注3 画像のお坊様のコンクリート製行列は、記載のお寺でなく最終日のお寺でとってもらった。行列に紛れ込もうとする私。トリックアートのようだぜ。お寺にはみんな決まった服装で行きますが、白いシャツ(上半身は白)と膝丈以上のスカートあるいはパンツをはいていれば大丈夫です。お寺では100リエルとか500リエルとか細かいお金をお布施にしたりするので市場などでたくさん両替します。プチュンバンのときに細かい額の新札の両替を束ですると、そのために手数料が発生するので、両替の金額がおかしい!と怒ったりしないように気をつけましょう。